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安徳天皇陵。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子で母は平清盛の娘・建礼門院徳子。安徳天皇は平清盛の強引な後押しにより、生誕一ヶ月で皇太子に立てられ、翌々年にはわずか三歳で父・高倉天皇からの譲位により即位した。しかしながら、翌年清盛が死ぬと各地で平家追討の動きが出て、寿永2(1183)年7月の木曽義仲の入京に伴う、平家一門の都落ちに際しては三種の神器と共に奉じられ西国に脱出した。すると後白河上皇は後鳥羽天皇を即位させ、天皇が二人立つという異常事態となった。以後、安徳天皇は平家一門と共に西国を転々としたが、文治元(1185)年、源平合戦の最終決戦となった壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門と運命を共にし、海中に没して亡くなったとされている。しかしながら、『醍醐雑事記』に「先帝行方不明」とあり、『玉葉』でも「旧主御事、分明せず」とされていることなどから、実は安徳天皇は壇ノ浦から密かに脱出して生き延びたという伝説・伝承が西日本には平家落人伝説とともに各地に残されていて、全国には安徳天皇陵とされるものが十数ヶ所あると言われている。この立岡に伝わる伝承によると、宇土を治めていた古保里越前守を頼って平家の残党が隠れ住み、安徳天皇の御霊を晩免の地に祀った、あるいは熊本県清和村(現山都町)に葬られた安徳天皇の墓をこの地に移したといわれている。この古墳は立岡古墳群の一つとして独立丘陵上に位置しており、直径30~35mの円墳である可能性が高いと考えられている。尚、明治16年にこの晩免古墳の近くにある潤野古墳の石棺が露出し、石蓋の裏に「吾人平資盛」との彫刻が見付かり、引き続き明治19年に行われた晩免古墳の調査で石棺の身の内面に菊花文があることが確認されたことなどから、地元に伝わる安徳天皇伝説を受け、宮内省(現宮内庁)より御陵墓伝説地(現陵墓参考地)に指定された。ただし、潤野古墳の「吾人平資盛」の彫刻は書体から後世の偽刻である可能性が高いとされ、晩免古墳についても五世紀後半頃の築造であると考えられているという。