いかなる人も踏み迷う

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姫御前塚。平景隆には姫御前と里人に慕われる美しい娘がいた。蒙古襲来の報を太宰府に伝えるため、家来の宗三郎と樋詰城を忍び出たが、元軍が射た毒矢に傷付き、動けず自害して果てた。その姫御前の亡骸を葬ったとされる塚。

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ゆかんど(不行塔)とはみだりに立ち入ってはならぬ所の意味で、この地は義有王の陵墓と伝えられている。義有王は後村上天皇の第六皇子であった説成親王の子・大僧正円悟(円胤)のことで還俗して義有王といった。文安元(1444)年、南朝方の残党と共に兵を挙げ、大和・紀伊に転戦して湯浅城の守りを固めたが、畠山持国の軍に敗れ、文安4(1447)年にこの地で自刃したという。享年四十歳。尚、この付近の山中には義有王の部下の墓といわれる数基の板碑が点在している。

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若宮八幡宮。南朝・後村上天皇の皇子・説成親王の御子・義有王がご祭神。義有王は文安元年に挙兵し、大和市紀伊の各地で戦い、文安4年に湯浅城に籠もったが、畠山持国の軍に敗れこの地まで逃れ自害したとされる。その後、里人がご遺体をゆかんどの森に葬り、この地に若宮八幡宮を建てて祭ったとのことである。


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